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学校ギャラリー

二宮金次郎像

さて、今日は、この写真の人についてお話ししたいと思います。この像は、どこにたっているか知っていますか。そうですね、校庭のプールのそばにたっています。それでは、これは、だれの像か知っていますか。
 これは、二宮金次郎という人の像なんですね。大人になって二宮尊徳というように名前を変えたようですが、今日は金次郎という名前でお話ししたいと思います。 
 この像は、実は私が小学校、中学校の時にも、この学校にたって
いました。その時はどこにたっていたかというと、この写真を見てください。
 これは、私が中学校の時(昭和42年)の先生方が、玄関の前で撮った写真です。今の1年生の教室の前あたりです。この写真では先生方にかくれて見えませんが、この玄関の脇、このあたりにたっていたものなんです。
 実は、この二宮金次郎の像は、私たちの学校だけでなく、どこの学校にもたっていたものなんです。
 
 私は不思議に思いました。どうして、昔はどこの学校でも、二宮金次郎の像を、学校の玄関の脇という一番いいところに飾られたんでしょう。
  
 プールの脇にたっている二宮金次郎の像を、もう一度よく見てみましょう。
 着ている服や、履き物の様子はどうですか。頭の髪型はどうでしょう。テレビの時代劇に出てきそうな感じですね。
 背中には何かしょっていますし、手には本を持っています。何をしょっていて、どんな本を読んでいるんでしょう。
 
  私は、何か手がかりがないかと思って、図書館へ行ってみました。すると、ありました。こういう本です。図書館ってすごいですね。自分が知りたいと思う本があるんですね。私はうれしくなって、さっそく借りて呼んでみました。
 この本に書かれていた、二宮金次郎の生まれてから、亡くなるまでのことをざっと紹介しましょう。
 
  二宮金次郎は、今から225年前、江戸時代に、今の神奈川県小田原市(東京の西あたり)で生まれました。生まれた家は、自分で土地を持っている、中くらいの農家で、そこそこ豊かな暮らしをしていたようです。しかし、5歳くらいの時に、金次郎の住んでいた村が川の洪水で流され、大変な被害を受けました。金次郎のお父さんは、大勢の困っている人に、自分の土地や財産を分けてやったために、自分の家がたいそう苦しくなって、14歳の時にお父さんを、16歳の時にお母さんを亡くしてしまします。
 
 それからというもの、ますます金次郎の生活は苦しくなり、おじさんの家に引き取られ、二人の弟とも離ればなれの生活となってしまいます。しかし、金次郎は、そんな苦しい生活の中でも、本を読み学問をすることはやめなかったようです。同時に、自分はどんなに苦しくても、周りで困っている人を見ると、その人を助けずにはいられないという人でもあったようです。
 そんな苦しい生活の中でも、金次郎はくじけることなくがんばります。ある時、田んぼの脇に、植えられずに捨てられている稲の苗をひろってきて、荒れ地の水たまりに植えておいたら、そこから1俵の米がとれたということがありました。これをきっかけとして、だんだん田畑を買い戻し、つぶれていた家も新しく建て、二宮家を復活させたのだそうです。
 
 それからというもの、農民を助けることはもちろん、殿様に頼まれて不景気で困っていた藩を立て直したりする仕事をするようになりました。金次郎に救われた村は600もあるそうですからすごいですね。
 56歳の時に、名前を金次郎から尊徳と改め、70歳で亡くなりました。
 
 二宮金次郎が、どんな一生を送ったのか、ざっとお話ししました。
 金次郎という人は、すごい人ですよね。どんなところが偉かったのか、まとめてみました。
 その1、どんなに貧しくても、くじけることがなかったということ。
  その2、貧しいから、できる仕事を一生懸命やったんですが、働きながら、勉強も熱心にやったということ。
 その3、ものをうんと大切にし、無駄なことをしないよう、いつも心がけていたということ。
 その4、自分のことよりも、人や社会の役に立つことを、いつも考えていたということ。
  
 この二宮金次郎の生き方や考え方は、たいそう立派だということで、昭和21年に使われはじめた1円札には、金次郎の顔が印刷されていたくらいです。
さて、今日は、この写真の人についてお話ししたいと思います。この像は、どこにたっているか知っていますか。そうですね、校庭のプールのそばにたっています。それでは、これは、だれの像か知っていますか。
 これは、二宮金次郎という人の像なんですね。大人になって二宮尊徳というように名前を変えたようですが、今日は金次郎という名前でお話ししたいと思います。 
 この像は、実は私が小学校、中学校の時にも、この学校にたって
いました。その時はどこにたっていたかというと、この写真を見てください。
 これは、私が中学校の時(昭和42年)の先生方が、玄関の前で撮った写真です。今の1年生の教室の前あたりです。この写真では先生方にかくれて見えませんが、この玄関の脇、このあたりにたっていたものなんです。
 実は、この二宮金次郎の像は、私たちの学校だけでなく、どこの学校にもたっていたものなんです。
 
 私は不思議に思いました。どうして、昔はどこの学校でも、二宮金次郎の像を、学校の玄関の脇という一番いいところに飾られたんでしょう。
 
 プールの脇にたっている二宮金次郎の像を、もう一度よく見てみましょう。
 着ている服や、履き物の様子はどうですか。頭の髪型はどうでしょう。テレビの時代劇に出てきそうな感じですね。
 背中には何かしょっていますし、手には本を持っています。何をしょっていて、どんな本を読んでいるんでしょう。
 
 私は、何か手がかりがないかと思って、図書館へ行ってみました。すると、ありました。こういう本です。図書館ってすごいですね。自分が知りたいと思う本があるんですね。私はうれしくなって、さっそく借りて呼んでみました。
 この本に書かれていた、二宮金次郎の生まれてから、亡くなるまでのことをざっと紹介しましょう。
 
 二宮金次郎は、今から225年前、江戸時代に、今の神奈川県小田原市(東京の西あたり)で生まれました。生まれた家は、自分で土地を持っている、中くらいの農家で、そこそこ豊かな暮らしをしていたようです。しかし、5歳くらいの時に、金次郎の住んでいた村が川の洪水で流され、大変な被害を受けました。金次郎のお父さんは、大勢の困っている人に、自分の土地や財産を分けてやったために、自分の家がたいそう苦しくなって、14歳の時にお父さんを、16歳の時にお母さんを亡くしてしまします。
 
 それからというもの、ますます金次郎の生活は苦しくなり、おじさんの家に引き取られ、二人の弟とも離ればなれの生活となってしまいます。しかし、金次郎は、そんな苦しい生活の中でも、本を読み学問をすることはやめなかったようです。同時に、自分はどんなに苦しくても、周りで困っている人を見ると、その人を助けずにはいられないという人でもあったようです。
 そんな苦しい生活の中でも、金次郎はくじけることなくがんばります。ある時、田んぼの脇に、植えられずに捨てられている稲の苗をひろってきて、荒れ地の水たまりに植えておいたら、そこから1俵の米がとれたということがありました。これをきっかけとして、だんだん田畑を買い戻し、つぶれていた家も新しく建て、二宮家を復活させたのだそうです。
 
それからというもの、農民を助けることはもちろん、殿様に頼まれて不景気で困っていた藩を立て直したりする仕事をするようになりました。金次郎に救われた村は600もあるそうですからすごいですね。
 56歳の時に、名前を金次郎から尊徳と改め、70歳で亡くなりました。
 
  二宮金次郎が、どんな一生を送ったのか、ざっとお話ししました。
 金次郎という人は、すごい人ですよね。どんなところが偉かったのか、まとめてみました。
 その1、どんなに貧しくても、くじけることがなかったということ。
 その2、貧しいから、できる仕事を一生懸命やったんですが、働きながら、勉強も熱心にやったということ。
 その3、ものをうんと大切にし、無駄なことをしないよう、いつも心がけていたということ。
 その4、自分のことよりも、人や社会の役に立つことを、いつも考えていたということ。
 
 この二宮金次郎の生き方や考え方は、たいそう立派だということで、昭和21年に使われはじめた1円札には、金次郎の顔が印刷されていたくらいです。
 
 また、明治時代(今から100年くらい前)には、「二宮金次郎」という歌が作られ、歌われていたというくらいですから、いかに有名な人だったかということがわかりますね。  
                                                                              
 この本を読むことで、はじめにお話しした「どうして二宮金次郎の像が学校に建てられているんだろう」という疑問の答えが見つかりました。
 この姿は、山で採ったたきぎを運びながら本を読んで勉強しているところだったんだね。今は、自動車が通って危ないから、歩きながら本を読むことはできませんよ。みなさんはやらないで下さいね。勉強しようとする強い気持ちがあれば、いつでも勉強はできるんだということを教えてくれているんだね。熱心に学べば、大人になって役に立つ力が、きっと身に付くということを、この像から教えてもらっているんだね。プールのそばの二宮金次郎の像は、今から約
80年前(昭和のはじめごろ)に建てられたようです。是非子どもたちのお手本にしたいという願いをもって学校に建てれたんですね。これからもお手本になるよう、大切にしていきたいですね。
 
 最後に、二宮金次郎の言葉を一つ紹介します。「積小為大(せきしょういだい)」という言葉です。「小さなことでも、それが積み重なれば大きな実りになる」ということです。こつこつと努力することが大切だということです。
 先ほど紹介したこの本は、図書館にありますから、興味のある人は読んでみてください。
                                                                                             (中村直人)

生き残ったグランドピアノ

私が中学校3年生のときに、この校舎で起きた火事のことについてお話しします。
 私が小学校を卒業したのは、昭和39年度です。1964年度、東京でオリンピックが行われた年度ですから、今から46年前のことです。私たち、牟礼東小学校の卒業生は、全員、牟礼東小学校の裏側に並んで建っていた牟礼東中学校に進学しました。
 この写真を見てください。その頃の牟礼東小学校と牟礼東中学校の写真です。今の校舎の位置と、大きく変わっていませんね。(今も校舎のだいたいの位置と比べて説明する)今の校舎と大きく違うのは、今の校舎は鉄筋コンクリートでできているけど、昔は木でできた「木造校舎」であったということですね。
 
 私が中学3年になったとき、牟礼西中学校と一緒になって「牟礼中学校」という名前になりました。そして、その2月のことです。
昭和43年2月6日でした。牟礼東小学校の裏側(今のパソコン教室のあったあたり)にあった牟礼中学校の校舎が火事で焼けて、みんな燃えてなくなってしまったんです。私は、今も父母や兄がすんでいますが、駅の近く(栄町)の家に住んでいました。真夜中に母に「学校が火事だってよ!」と起こされて、急いで外に出てみまし
た。私の家から学校は直接見えないのですが、真っ赤に夜空を染めた光景は、今でもまぶたに刻み込まれています。
 2月といえば、1年中で一番寒い時期。その日はことさら冷え込んだ日で、消防ポンプで水をかけようとしたけれども、水が凍ってしまってほとんど役に立たなかったという話も聞いています。(体育館の下の通路を出た道の向こうに、コンクリーで固めた四角い場
所があるのを知っているかな。あそこがその頃貯水池だったそうですよ)
 
  2月6日の信濃毎日新聞の記事では、「中学校の校舎は全焼した」と伝えられています。全部焼けてなくなってしまったということですね。中学卒業を控えた私たちは、勉強する場所がなくなったので困ってしまいました。幸いにも、中学3年生になったときに牟礼西中学校と一緒になったので、牟礼西中学校の校舎があいていたようです。今の牟礼西小学校のあるところです。私たちは、火事の後、卒業まで、牟礼西中学校の校舎へ、雪の中を歩いて通ったこと、牟礼西中学校の校舎で卒業式をしていただいたことを、昨日のことのように覚えています。
 
 さて、火事のときのことに話を戻します。
 この額を見たことのある人はいますか。児童玄関のトロフィーや賞状の額を飾ってあるところにかかっています。「生き残ったグランドピアノ」と書いてあります。下の方には「私たちの学校の宝物」とも書いてあります。この「生き残ったグランドピアノ」というのはどこにあるのかというと、知っている人がたくさんいそうだね。そうです、音楽室の後ろの方に置いてあるもう一つのピアノ、これがその「生き残ったグランドピアノ」なんですね。
 
 先日音楽室へ行って弾いてみました。私はピアノはうまく弾けないので、、ドレミファソラシドって弾いてみただけですが、まだまだ素晴らしい音を響かせていましたよ。
 
  火事になる前、この頃、小学校と中学校に音楽室は2つありました。一つは体育館の裏というか、プールに近いところに、そしてもう一つは、中校舎のこのあたりにあったんです。この中校舎の音楽室にあったピアノ、それがこの「生き残ったグランドピアノ」なんですね。でもこんな重いピアノをどうやって出したんでしょう。廊下の途中には段差があって、階段を使わなければならないところもありました。
  この写真をよく見ると、3つの校舎を結ぶ廊下があったことが分かるでしょうか。ここですね。この廊下をたった3人で運び出したんだそうです。実は、もっと大勢の人が手伝ったという人もいますが、40数年たった今、人数ははっきりいたしません。いずれにしても、少ない人数で運んだことは間違いなさそうです。
 火事のさ中に、あの重いピアノを運び出した人たちは、どんな思いでそうしたのでしょう。
 私は、この牟礼東小学校そして当時の牟礼中学校を、こよなく愛していた人たちが、やむにやまれない思いでそうしたにちがいないと思っています。地域の大切な学校のために、なにかしなくてはいられない、そんな思いが、そうさせたのだと思っています。
 
  昭和45年、火事のあった2年後にはもう学校の整備が進んでいます。
 子どもたちのために、一刻も早くなんとかしなくてはという地域の人の気持ちが伝わってきます。
 
  そして、昭和49年6月には、今の校舎ができあがっています。
 この写真ができあがったばかりの校舎の写真です。どうですか、今の校舎ですね。(パソコン室はまだありませんが)火事からわずか5~6年で、新しい校舎が造られたんですね。
  私たちの学校のある牟礼の地域には、私たちの学校を大切に思い、愛してくれている人がたくさんいて、その思いは何十年も前から今日まで、受け継がれてきて、そして、これからもずっと受け継がれていくんですね。
 
 多くの人たちの思いが詰まったこの校舎を、みんなで大事に守っていきましょう。
 
                                                                                                                                                       (中村直人)

天地之化育

これは、体育館でみなさんがいつも目にしている、あの額の写真ですね。「なんて読むのかな」なんて考えたことのある人もいるでしょう。
 この額は、いったい何だろうね?
 実は、これと同じ字を書いた額が、ほかにもあるんですよ。知っていますか。
 
 これですね。これは、職員室の前のお部屋、視聴覚室の黒板の上にかけられている額です。
 これらの額に書かれた字は、なんて読むのかな。どんな意味なのかな。どうして私たちの学校にこの額があるのかな。
 まずそのことについてお話しします。
 
  体育館のあの額を見てみましょう。
 一つ一つの字は、わかる人がたくさんいると思います。 こういうふうに書いてあります。実はこれは右から読むんです。ちょっと変な感じがしますが、昔はこう書いたんですね。(「天地之化育」の1文字ずつの読みを説明する) 右から続けて読んでみると「てんちのかいく」と読むんです。
 
 視聴覚室の額も見てみましょう。やはり右から書かれていますね。続け字で書かれていますから読みにくいんですが、やはり「てんちのかいく」と書かれてるんです。
 
  「天地之化育」って、どういう意味なんでしょう。
 「天」は、空や宇宙のこと、「地」は大地、地球のことです。すなわち「天」と「地」で、『自然』という意味ですね。「化育」というのは、あまり聞いたことのない言葉です。これは、『生み出し育てること』という意味です。つまり、『天地之化育』とは、『この世にあるすべてのものは、自然が、生み出し育てるものである。私たち一人一人も自然によって育てられているのだ』ということなんです。
 宇宙や地球という大自然の力で生まれ、そしてその中で育てられている私たちの命はとっても大切なものだということを教えてくれているこの言葉を、私たちの牟礼東小学校では、昔からずっと大事にしてきたんですね。
 
 「自然」と言って、私たちがまず思い浮かべるのが、この山ではないでしょうか。この山の名前は知っていますね。
そうです、『飯綱山』です。メタセコイヤの木の辺りから見た飯綱山の写真です。今の季節は雪をかぶって、特に美しいと、わたしは思います。この飯綱山の名前をいただいて、町の名前は「飯綱町」だし、中学校は「飯綱中学校」です。まさに、私たちの町のシンボルと言うことですね。
 
 この山には、毎年5年生が登っています。
 これは、今年の5年生が頂上で撮った写真です。
 とっても疲れているんだけど、みんなにこにこしているでしょ。
 
  これは、今年の6年生が、去年昇った時の写真。やっぱりにこにこしています。苦しさを乗り越えた先に味わう満足感であふれていますね。
 
 この飯綱山には、天狗が住んでいた、という言い伝えがあります。こんな格好をしています。古くから、松代のお寺に伝わるものなので、黒くなってわかりにくいですが、「いいづな歴史ふれあい館」で出している本に、わかりやすい絵が載っていました。これです。私たちが想像する天狗とは少し違います。名前は『飯綱三郎天狗』といいます。
 口は、山の王者鷹のくちばしになっています。手には、悪魔を退治する刀と綱を持っています。背中には、悩みだとか苦しみだとかを焼きはらう炎を背負っています。そして、白い狐に乗って、空を自由自在に飛んで行っては、人々を助けてくれるんだそうです。こんなありがたい天狗様が棲んでいる飯綱山は、大昔から私たちの大切なお山とされてきたんですね。
 
 そう言えば、私は、小さい時から、飯綱町になる前の、牟礼村の形は、天狗の横顔にそっくりだ、とずっと思っていました。みなさんはどう思いますか。もしそう見えるとしたら、何か不思議な感じがしますよね。
 今の飯綱町の形は、蝶々に似てて、これはこれでまた気に入ってますよ。
 
   話が横道にそれました。
 飯綱山を見るたびに、わたしは思います。
 一つは、「何万年もじっと動かずに、どっしりとここに座ってきたんだな」ということ。(音楽室の近くに立っている「不動の碑」についても触れる)
 もう一つは、「飯綱山は、いつもわたしたちを、じっと見守ってくれているな」と言うことです。
 
 この額は、わたしたちの命は、飯綱山をはじめとする、天地自然の力で育てられている大切な命なので、そのことを忘れないで、これからも正しく生きていってほしい、という願いが込められたものだったんだね。みなさんも、この額を見るたびに、思い出してくれるとうれしいです。
                                                                                                                                                             (中村直人)

牟礼東ギャラリー

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