りんご栽培は有史以前に始まったとされています。原産地である中国・天山山脈、コーカサス地方からヨーロッパ、さらにアメリカへと伝わりました。
りんごが最初に栽培されたのは新石器時代で、8000年ぐらい前の炭化したりんごがトルコで発掘されています。紀元前1300年にはナイル川デルタ地帯に果樹園があり、ギリシャ時代にはりんごの野生種と栽培種を区別し、接ぎ木で繁殖させる方法が書かれ、ローマ時代になるとりんごの品種が載った本が出版されています。その当時、すでに人々は用途によっていろいろな種類のりんごを使い分けていたようです。
りんご栽培に熱心だったのはアングロサクソン民族です。アメリカでのりんご栽培のもとになった品種は、ヨーロッパからの移民によってもたらされました。フランス、オランダ、ドイツ、そしてイギリス人が、自分たちの祖国から様々なりんごの種を持ち込んでは蒔いたのです。さらに西部開拓時代には、地球の磁気を利用して地下水脈を探る道具にりんごの枝を使い、井戸を掘り、家の庭には必ずりんごの木を植えて、街を作りました。
日本でりんごの名が記録されたのは平安時代の中頃(918年)ですが、それは中国から渡来した「和りんご」とか「地りんご」と呼ばれる粒の小さな野生種でした。ここ北信濃では「高坂りんご」と呼び、お盆には善光寺で売られ、仏前に供えられました。
今日のようなりんごがつくられ始めたのは、まだ130年ほど前のことです。1871(明治4)年に開拓史がアメリカから75品種を輸入し、内務省勧業寮試験場が中心に苗木を全国に配布、試作が行われました。その結果、りんごは信州や東北地方などの比較的冷涼な地域に適していることが分かり、新作物として普及しました。冷害でお米が実らない年でも立派に実をつけることができ、寒冷地では重要な作物です。
はじめは和りんごと区別するために「西洋りんご」とか「苹果」と呼んでいましたが、品質、果実の大きさが優れていたために、和りんごに代わって栽培が広がり、やがて単に「りんご」と呼ぶようになったのです。当時の新聞は『目方39匁、周囲7寸4分程。じつに管内未曾有の大なるものにして、味わい殊に美に、日本種類とは比較し難し」(明治10年8月19日、北斗新聞、青森)と報じています。
飯綱町におけるりんご栽培は、牟礼地区において明治時代中頃からはじまり、次第に栽培技術が広まっていきました。町全域で本格的に栽培されるようになったのは、昭和に入り養蚕に代わり、桑の代替作物として植栽が進められてからです。1935(昭和10)年、旧三水村役場ではりんごの苗木1本10銭の半額を助成して普及に努めました。しかし、太平洋戦争が勃発してから、りんごは国民食料と認められず、政府は作付統制令を発布、増殖の禁止や伐採の命令が出され、また労力や物資が不足して、りんごづくりには大きな打撃となりました。
終戦後、荒れ果てたりんご園の建て直し運動が盛んに行われ、また、接木法による品種更新、花粉の交配育成による新品種の研究が展開され、高級りんごづくりへの試作も注目されてきました。王林、ふじ、つがるなどが主力品種として台頭します。
特に、三水地区では栽培面積が飛躍的に増加し、1963(昭和38)年には最高の633haを達成、1968(昭和43)年には全国生産量のおよそ1%、9560トンを記録し、旧三水村時代は、日本一のりんご村として話題になりました。
外国品種と比べて日本のりんごが「味の芸術品」と呼ばれるのは、絶え間ない品種改良とりんご農家の情熱の賜物です。ひとつのりんごにも、長い歴史が詰まっているのです。現在、日本で生まれた品種「ふじ」は味の良さと優れた貯蔵性が評価され、中国で、そしてアメリカでも栽培されています。和りんごと西洋りんごのふるさとに里帰りしたわけです。